日付を越えて
少し手前の夜。
半分向こう側の夜にブログを書いてから半日。
朝、目を覚ます。
ロクに横になっている時間はなく。
別にそれが嫌だという訳ではない。
日曜日の朝。
その時間は嫌いな時間ではないのだ。
ほんの僅か。
数時間の間体を横にすれば十分であり充分であると本能的に知っている。
日曜日はカミさんが仕事に行かない日だ。
それでもワン子供たちは早い時刻(つまり彼らの体内時計を司るルーティンは驚くほどに決まっているから)からカミさんにご飯をせがみ、カミさんがそれに答える。
ほんの数分〜十分ほどの間朝の静けさが喧騒へと変わる。
ほのかにいい匂いがしてくる。
もう目は覚めている。
カミさんが作る「夕飯用」の下ごしらえ。
うちの夫婦は多くても日に二度の食事。
普段は俺は1食のみを夕飯として。
二人共休みであればお昼に少し間食的になにかを食べるといった具合。
今日も俺は仕事。
つまり間食はなし。
朝の匂いが好きだ。
カミさんは下ごしらえを終えてもう一度布団へと横になる。
倣ってワン子供たちがそれに尾っぽを振ってついていく。
入れ替わり今度は俺が布団から出る。
ベランダへ。
犬のルーティンさながらにベランダで煙草を吸う習慣は決まりごとのようなもの。
煙草の前にPCを立ち上げて、お湯を沸かす。
戻ってきてコーヒーを注いで匂い立つカップを片手に椅子に座りデスクの奥を観る。
メール、SNS、レポート。
ざっと目を通して必要なものを書き出して返信の順番つけをしたり。
隣の部屋からもワン子供の鳴き声が聴こえる。
アパートに住む人間の数よりも動物の命が多い建物というのが特徴だ。
住んでいる人間たちは気が付かない(つまり慣れとはある意味では恐ろしい習慣とも言える)ようだがとても獣の匂いがする。
俺自身時々しかそれに気づくことが出来ないが。
カップに注いだコーヒーが縁の半分くらいに減った時。
大体がこの文面を書き終わること。
書くことと描くことの違いはどこにある。
静まり返った日常と喧騒の隙間で。
日曜日の朝とはネジを緩めて許される時間。
あっという間に過ぎ去っていくたった1日の繰り返しの先にあるのはただの死で、その死へ向かう大切なたった1日。
日曜日の朝くらいは30分だけでも本を読みたくなる。
白とグレーの毛にホワっと覆われた猫の後ろ姿。
しるしのように描くもの。
体は重くても足取りは止めない。
日曜日のご飯はパンやパスタが良い。
雰囲気だとか匂いが好きだ。
軽々しく物事が進んでいく。
コロナ渦だからか、いつもなのか。
逆か、可逆か。
境目に白いペンキが塗られているのとそうでないことの大きな差のようなことを感じるのだ。
違和感というか過敏性なのか。
美しいと思うものの大半が朽ちている。
汚れなき美しさはあまりにもそこに隙がなく躊躇し、時に嫌悪と恐怖を感じてしまう。
霞がなければその透明さに透かされた自分は恥ずかしくなる。
絶望なんてありもしない。
それは贅沢な話だから。
逆もしかり。
希望など無い。
充分な偶然に満たされているのだから。
湯ではない水の中で生まれたらしい。
産み落とされた先が泥水なのかは分からないが。
時折神々しいほどの力を感じる。
命のありがたさ。
日曜日の朝。
今日が今日で在れるようにと柄にもなく手を合わせてる。
なにも願わず。
なにも祈らず。
手を合わせ。