3.11
あっちもこっちも散らかして生きている。
そういう毎日。
しばらく前は毎日このブログと一緒に
— まったくもって個人のブログ( uranotakahiro.com )
なんてのも書いていたんだけど、それも今日更新したら半年ぶりくらいだった。
今日は 3.11 ラジオもテレビ(まだつけていないけど)もこの前後の日はそういう話が増える。
この日がなければ今の自分はないと断言出来る。
そういう意味のある日であり、忘れることの出来ない日である。
自分の命を放り出すように生きていたことがガタガタと音を立てて崩れた。
この日を境に。
まぁもちろん今でもそういった傾向はどうしても完全には抜けないし、それでも良いと想うことがあるけれどそれでも命のありがたさを自分自身にも感じることがあるのだと。
一度死んでその後の人生のような。
大袈裟だけれどそのくらい。
(Camera – Leica – M TYP240 / Lens – Leica – Summicron 35mm f2.0 )
僕の不眠症はもともとながらも
明確に2018年からひどくなった。
よりそれがひどいものになったのは2020年から。
” いちご ” が目の前からいなくなって、その後 ” みるく ” のあと。
みるくが居なくなってしまったこと
子どもたちと生きていられる時間が限られていること
それが「5年で店を閉じる」(今だと残り3年)と決めた理由に紐付いている。
去年のこと。
” くるみ “
をお迎えした。
ドタバタと過ぎる日々をさらにドタバタに(もちろん良い意味で)してくれている。
みるくも随分と幼少期に手が掛かる子(俺の海外出張当日にパスポートを噛みちぎったりとかとか)だったけど、断然ぶっちぎりでそれ以上。
今は我が家に来て半年ちょっと。
(Camera – Leica – M TYP240 / Lens – Leica – Noctilux 50mm f1.0 )
命は預かり物
そんな風に考えている。
ペットとは呼ばないけど、それでももちろん人間のエゴであることくらいは分かっている。
だからそのエゴの為に、その預かり物の為にであれば自分の命などいくら投げ出しても構わないと僕は思うしそうでなければ親ではないと思う。
11年。
今日はそんな日。
ありがたいことに、今日もバタバタと仕事があることに感謝をしながら。
我が子達に出逢えたこと(そしてそれに紐付いているのはもちろんカミさんであり)に感謝しながら。
今日という昨日と同じ特別な日。